駐在員雑感(第9回) 「上海での反日デモ」

  • 投稿日:2005.05.05
    • 002:職員コラム

新年度がはじまり気分も一新、さあこれからと思っていたところで、中国全土で大規模な反日デモ隊が発生した。ここ上海でも4月16日(土)数万人規模のデモが行われ、日本領事館に対して石やペットボトルの投込み等が行われたほか、日本人が怪我をしたり、日本料理店のガラスが割られなどの被害がでた。
これまで、上海は中国においても「特別な地域」(中国のほかの地域と違い、政治的な行動とは縁がうすいところ)と考えられていたが、その例外も通用しないことが悲しいかな証明された形になってしまった。
デモ当日私は、県内企業、県人会会員へのデモ情報提供のため事務所に出勤した。
事務所からは領事館の一部が見える。私は、事務所の窓越しにデモの状況を見ながら関係機関等への対応に当たった。私が見たデモの状況は以下のとおりである。
午前8時頃からデモ対策の警備体制が敷かれ、領事館付近には武装警察、警察官が配備され、一部道路に交通規制が敷かれた。
午前11時頃デモの第一団が領事館前に到着。その後続々とデモ隊が到着。みるみるうちにその数は増えていった。デモ隊は、初めは領事館のすぐ目の前で石やペットボトルを領事館に投げ込む行動を繰り返していたが、その後警官隊がデモ隊を領事館から遠ざけるような行動に出たため、デモ隊と領事館の距離は少し広がった。また、付近のビルからは×印が書かれた日の丸が掲げられ、ビラらしきものがビルの窓から領事館方向に向かって投げられた。
午後1時頃領事館付近のデモ隊の数はピークに達し、領事館まで進めないデモ隊の一部は付近の日本料理店のガラスを割るなどの行動に出た。これを警官隊が阻止する様子はなかった。
午後2時頃一旦デモ隊は解散に向かうかに見えたが、その後も続々と領事館付近にデモ隊が到着し、数に変化は見られなかった。
午後3時半頃、デモを見に来ていたと思われる日本人が中国人に包囲され、日本人が警官隊の車に逃げ込むとその車に対して投石等の行為がなされ、一時現場は騒然とした。
午後4時を過ぎる頃から徐々にデモ隊の数が減りだし、午後8時頃には、道路の封鎖も解除された。
デモは16日のみで、その後の週末や5月1日、4日は起こらなかった。
私は、特に5月4日はまた起こるのではないかと懸念していた。
それは、5月4日が中国のナショナリズムの原点とも言われる日だからである。
1919年第一次世界大戦の戦後処理を決定するパリ講和会議が開催され、日本の山東省における権益がほぼ認められたことに中国国民は激怒し、中国(当時中華民国)全土で発生した反帝国主義(反日)運動となったのである。このような歴史的事実があるため4日はもしかしてと思っていた。しかし、1日も4日もデモはなく通常の上海であり、まずは一安心である。

私は、今回のデモに際して感じたことが2つある。
まずひとつは、より正確な情報が日本側に伝わっていなかったような気がすること。
それは、日本のマスコミの報道が一部の暴徒化した市民の映像や写真を繰り返し使用して報道するため、日本ではあたかも上海の街全体が暴徒であふれているかのようなイメージになってしまったような気がするのだ。本来であれば駐在員である私達がもっと正確に情報を伝え、危険な場所はごく一部であり、上海すべてが危険であるかのような印象を与えないようにするのが役割であったはずなのに、その役割があまり果たせなかったように感じており反省している。
今更ながら恐縮だが、上海に関して言えば、確かに領事館周辺の「虹橋」地区は、デモがあった当日は危険であったが、それ以外の地域、それ以外の日については全く通常通りの状態であり、日本人への嫌がらせ等もなかったことを強調したい。

ふたつ目は、外国で生活する際の基本的心構えを改めて認識したこと。
つまり、周囲に危険がないか注意したり、中国人といらぬことでのいざこざを避けたりという通常外国で生活するうえでは至極当たり前の行動を、私は忘れていたような気がするのだ。
それは、上海は日本人の数が7万人とも8万人とも言われ、日本人社会が形成されているため、日本と同じような生活が可能であり、あたかも日本で生活しているような錯覚となり、海外での生活上の基本的注意事項さえ忘れていたということである。

また、日中関係は、特異な歴史的背景があり、これまでもそれを十分に認識していたつもりではあるが、改めて妻や子供に説明することにより、中国で暮らす上の常識を再確認させられた。
平常を取り戻した領事館周辺の風景を見ながら、改めてここは外国であり、日本とは違う文化考え方を持つ人々が暮らしている街である事を認識した。

2005年5月5日
福島県上海事務所 安達和久
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